脅威のだめんずアーティスト、あるいはなんという哀しい「揺れ動く」才!
村上護「放浪の俳人 山頭火」を読了して思った感想がそれ。
種田山頭火は「分け入っても分け入っても青い山」「うしろすがたのしぐれてゆくか」など、自由律を大成させた人物として名高い俳人。昭和戦前〜戦後をまたいで活躍。
何度かブームが来る人らしいんだけど最近では福山雅治ダンロップのCMで起用されていることからまたブームが再燃しておるようですな。
私自身も中学校の教科書で尾崎放哉とセットで習って以来、句作とともに彼の破天荒な人生にずっと興味を持ち続けていました。
ここでは評伝を読んでの私なりの山頭火の人となりについての感想、そして改めて彼の句作が今なお人に愛されるわけをざくっとログしまっす。
天性の「愛され系だめんず」な山頭火
村上護の山頭火伝では細かな資料をもとに、山頭火の生い立ちから生涯までをきめ細やかに描写しています。そこから伝わる彼の人物像は、
・憎めない人柄、
・自分に自信がもてない
・感受性が強い
・酒だけが彼を酔わせる
・奢り喬ぶりを嫌う
特に父竹治郎の遊興癖や母の投身自殺など、山頭火のその後の人格形成に一生の影を落とした出来事がかなしい。自己肯定感の低さ、神経衰弱、酒への耽溺、そして幸か不幸か句作の才にそれらが色濃く表れてます。
にしてもマジメ系クズとはこの人のことなんじゃないか!
酒が入るとダメになる。世帯をもってもひとところに留まれない。造庵をするといってまた放浪に出る。
師匠の萩原井泉水や俳人仲間で医者の木村緑平がいなければもっと早くダメになってただろうな。
本書を6合目まで読んで「緑平もう山頭火にお金貸しちゃらめえええ造庵なんてムリだからこいつ絶対また遁走するから!」って思ったもん。私なら貸さない。
そんなにだめんずなのになぜか山頭火の周りには人が集まる。俳句仲間から行脚の途中で知り合った夫婦、幼子まで。きっともてはやされながらも自身の奢りと喬ぶりをきらった山頭火のナチュラルボーンな人の良さが大きいんでしょうね。
女子校で講演を頼まれて困り果て、ひとこと「これが山頭火です」と言って壇上を駆け下り、女子学生がクスクス笑ったというエピソードが微笑ましい。
「クラインの壺=禅的正見=選択的武装解除」山頭火の句の魅力とは
山頭火の句作が時代を超えて今なお愛される理由も、本書を読んで垣間見えた感じ。それは「よろけ」を含めた「ありのままの我を受け入れる」行程にあるんじゃないかなあ。
うしろすがたのすぐれてゆくか
本書ではこの句を用いて「山頭火が自分自身の背中を見つめる域に達している」と評している。
これはもちろん比喩。穂村弘が「短歌は多様なようでいて、実は皆ただ1つのテーマについて詠んでいる。それは『ただ1回きりのかけがえのない我』だ」と「短歌の友人」の中で述べている。
これは多分ほかの詩歌など創作活動にもあてはまるんじゃないかな。
で、山頭火にとっては行乞行脚と句作しか、哀しき「我」を俯瞰し、きりはなす術がなかったのではないかな。
この詩歌創作を通して我が我をみているような錯覚、「我の俯瞰」は、穂村弘同「短歌の友人」では「クラインの壺(=メビウスの輪)」と表現されている。
山頭火が晩年入った禅仏教でも「正見(しょうけん)」という言葉がある。それは「ものごとをあるがままに見る」という悟りの状態だ。
晩年の山頭火はそのとおり「時に澄み、時に濁り」ながらも山川草木と一体になるかのように、みえるものをあるがままに詠む。そこには「よろけ」はあっても、自己をより良くみせようより良い句を詠もうという気負い、自己防御といったものは感じられない。
穂村弘はそのようなノーガードで我を見る、棒立ちの我をみるといった短歌を「選択的武装解除」と表現している。
この「選択的武装解除」つまり「ありのままの我を受け入れる」ことこそが、日本人の、人間存在全体の目指す至高の状態なんじゃないかなあ。
山頭火の自由律を読むと、よけいなものがはがれてく感じがするのはそのせいかも。人気の理由は他の人もそのはがれの心地よさを感じているからかも。
蜘蛛は網張る私は私を肯定する
あとがき
山頭火の評伝をここまでくっきりと書くには当然ながら山頭火の資料だけではだめで、当然その周辺の人物や情勢の細やかな資料も丹念に検証する必要があったでしょう。さらに飽きずに小説のように読ませる村上護氏の筆力はすげーなーーと畏敬の念とともに読み進めてました。読んでよかった。でもちょっと急ぎ足で読み進めちゃったのでもっかい読み直したいな。
尾崎放哉をモチーフにしたこの小説も読みたいです。
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